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危うい町   <上>     

画文:工藤菊畝

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血管が脈を打つ度に左のこめかみに痛みが走る。

頭が壊れないように、そうっと首を持ち上げる。

皮膚の裏側を何かがぞわぞわと這っている。

身体の細胞の一つ一つが傷められてしまったような不快な目覚め。

食道と胃にざらりとした違和感と空腹感がある。

 

 

 

傷んでしまった身体を元に戻すには何かを食べなくてはならない。

いや、もう少しの間ベッドに居た方がいい。

半裸の身体の皮膚に綿の寝具が触れる気持ちの良さが身体の内側からの不快感を紛らわし、

意識の向こう側に小さな光が見える。

 

 

覚醒と睡眠の中間の曖昧さの中、雨戸も開けられない部屋で寝具に身を絡め、

自分自身の呼吸の音を聞きながら身体を休める。

薄れてゆく意識の中、遠くに緊急車両のサイレンの音を聞いたような気がした。

目を覚まし薄暗い部屋で時間を探す。

転がっていた小さな目覚し時計の針が午後二時を指しているのを見つけた。

もう一度眠ってしまったようだ。身体の方は大分楽になっている。

 

 

 

雨戸を閉めると差し込んで来た真昼の陽光に瞳孔が対応できず、陽の当たっている所が白く光って見える。

目が明るさに馴れて来るに従い、少しずつ部屋の中の全貌が見えて来た。

乱暴に脱ぎ置かれ散乱している衣類。

厳寒に脱ぎ捨てられた黒い革靴の先端が嘔吐物で汚れている。

 

 

 

節々に違和感を感じる身体で目に見える範囲を片付けた後、バスを使う。

全身の毛穴が開いて、自分を苦しめていた不快な物が染み出してゆくような感覚。

深く不舟に身体を沈め小さな水音を聞いていると、前日の記憶が頭の中に纏まり始めた。

 

 

昨日は蒸し暑い一日だった。

首筋の素肌に纏わり付く、ぬめっとした夕方の空気がトタン屋根の下の軒を蛞蝓が這うように移動し、

崩れ落ちてきそうな爛れた内臓を思わせる赤い雲は、

何か自分自身を奇怪で見知らぬ生き物のように感じさせた。

そんな夕暮れの時間を闇が呑み込んでしまった後、家々の暗い影の向こうにあの月が出た。

 

 

あの月とは温度湿度空気中の塵がある一定の条件の夏の夜に現れると思われる赤い月だ。

東の空に一際大きく昇り、

何かの意志を持っているかのように思われる気味の悪い月の表情は奥深い所で人の心を奪い、

その光の放射の下で地上の生き物は自分の行為の総てが得体の知れない物に見られてしまっているかのように感じ、

ある事をした事によってその結果が起きたのか、結果を生み出すためにその行為をさせられたのか、

行為の因果関係の後先が解らなくなってしまうような奇妙な感覚を経験する。

 

 

 

 

記憶は何を切っ掛けとして何の関連で蘇るのだろうか。

今思い出してもそれが何であるかは分らない。

きっと自分の意志とは何の関係もなく、

赤い月の光が記憶の沼の深みに沈めていたものを照らし出したのかもしれない。

私は月の光の中で古い友人女性の店を思い出した。

長年一人で馴染みの店へ通うような習慣がなくなってしまい足が向かわなくなり、

もう何年も私の生活の意識の中に入ってこなかった店だ。

 

特別に深い交遊があった訳ではないけれど、一度思い出したら無性に会いたくなって、

多分八時半であった開店時間も待ち切れず、足が向いてしまった。

三つ目の駅で電車を降り、混雑する改札前広場を人を避けてジグザグに歩き、

ガード下の信号を渡り、高架の線路に沿って歩いた。

もう一つの信号を越えた辺から人影の減った暗い夜道に、少々間延びした聞き覚えのあるボールを打つ音が響いていた。

 

 

音に導かれるように進むと赤い月の輝くテニスコートで、

白いウェアーの二人の少女が何かの意志に操られているように激しくボールを打ち続けている。

汗をびっしょり掻いて、真剣ではあるがどこか異様な笑いを浮かべたような表情には、

この世界のものではない何かがやって来ているようにも感じられた。

翌日彼女達はこの夜の事は覚えていないかも知れない。

 

 

 

目的の店のある路地を何とか思い出して曲ると、

暗がりの中にもずの木と書かれた懐かしい淡い光の電飾看板を見付けた。

ガラスの入った木の格子のドアもその儘で何も変わっていない。

 

真鍮のドアノブを回して引くと軋み音がして店の空気の中に吸い込まれた。

まだの客の姿はなく、彼女は一人でテーブルを拭いていた。

私の突然の訪れによる彼女の驚きは直ぐに喜びに変わり、二人で再会を祝った。

 

 

二坪半程の小さな店のカウンターに座り、お互いの現状を報告し合った後、ひとしきり懐かしい昔の思い出話に成った。

やがてやって来た常連客の話を聞きながら四杯目の水割を注文した所まで記憶があるが、それからは覚えが無い。

只、ドアの外から窺うようにずっとこちらを見ている赤い月をアルコールで痺れた意識が捉えていたのを記憶している。

何時に店を出て、どのようにして帰ったのか、嘔吐物で汚れた靴を見ると大分苦労して帰ったのだろう。

 

冷蔵庫に食料が無い事を確かめ、Tシャツを着て外へ出ると真夏の紫外線に内臓まで曝されてしまった。

身体の変調のせいか、空には青黒い渦が幾つも巻いているように見え、太陽は頭上に二つも輝き、ぐるぐる回っていた。

何が巨大で異様な生き物が民家の家並みの向こうから毛の生えた黒く長い手足を延ばし、こちらへやって来るように見えた。

 

こんな奇妙な日ではとても遣っていけないと思い、近くの店で食料を買い、早々とアパートに帰ってしまった。

ざら付いた胃に消化の良い物を納めた後、もう一度寝具に滑り込み静かに日が暮れるのを待った。

遠くに聞こえる町の生活音の中、気付かれる事無く部屋の暗さが増して行き、

窓の外に金色の夕日が見え、夕暮れの空に千もの目が私を見ていた。

それは奇妙な一日だった。

 

 

 

町という名の私の荒地。土偶のような人の行き交う私の荒地。

町は人の手で作られて、人の意志から離れそれ自身の意志で増殖しているようにも見える。

けれども人の手から離れた瞬間、再生する力を持たずに直ぐに壊れ始める。

人という自由意志を持った不完全な生き物によって、維持される町は精緻に作られれば作られる程、

人の犯すほんの小さな失敗でも取り返しの付かない事に結び付き、危険に満ちて来る。

そうして人は人生の大半を町を維持するために使い果たす。

安全と秩序を保ち続けるための緊張感の連続は、時として人を破壊への欲求を駆り立てるのかもしれない。

それでも人はぎりぎりの所で踏み止まる。

皆んなこの町や人が好きなのだから。

愛する者を失いたくないのだから。

 

 

私はもう思い出せない程前に、小さな一トントラックで少ない家財道具と共にこの町へやって来た。

その思い出は遠い記憶の迷路を辿って行くと、曲がり角の向こうの小さな日溜りの中に僅かに残っている。

その時に手伝ってくれた友人との関係も、時間の粒子が風化してしまい、彼の消息も所在も今は確かめる術が無い。

この町に住み着き私は人の営のために作られた様々な人工物と、

それを包み込む空気、風、音、温度、湿度、光、匂いといった物にも馴じんで行き、

町という生き物の構成物の一つになってしまったような気がする。

 

 

 

 

 

朝、鉄の蛇の横腹から吐き出された人々が高いコンクリートの建物の中に吸い込まれて行き、

夕方には黒い蟻のように吐き出される。

動く長い鉄の階段に乗って、地底人のように後から跡から深い地下に人が降りて行く。

 

埃っぽい金色の夕日が一瞬間輝を見せ、建物を照らして消えた後、

色取りどりの人工の光が集蛾灯に集まる虫のように人を魅き付ける。

 

幾重にも重なった黒いアスファルトの帯の上を二十四時間休む事無く人や物が動き、

大量の物が運び込まれ、使い捨てられ、巨大な釜で恐ろしい熱に焼かれ、町の人の知らないどこかに運び出される。

町の人はそれがどこなのか知ろうとはしないし、それを知っている極く僅かの人は言おうとはしない。

皆んなこんなおかしな事がいつまでも続く訳がないと思いながら誰も止められない。

皆んながどこかで罪の意識を感じていて、心深い所で傷付いている。

 
巨大なビルの群れが空を突き刺して立ち並び、町は天空を目差している。
建物の中で使われた力が捨てられ、恐ろしい熱と成って町の中に吹き出されるが、
町の人はその熱に帰るべき場所を与えてやる事は出来ない。
 
その一方で新しくまばゆい建物の下にはテントや小さな紙の家が作られて、
町に住処を持つ事を許されない人達が眠る。
そして直ぐその側を多くの人が無関心を装って通り過ぎる。
それ以外仕方がないのだと思いながら。
取り敢えず今はそれが自分でない事を幸運に思いながら。
 
どこからかアスファルトを砕く連続音がして道が掘り返されている。
ある日突然に長い間利用して来た商店のシャッターに閉店を知らせる張り紙がされ、
別の通りでは新しい大きな店が夜遅く迄人を集めている。
 
アパートの前の駐車場にはトラックが止まり、忙しく家財道具が運び込まれる。
人はどこからかこの町へやって来て、生きるために人との関係を求める。
 
一人で生きるのは寂しくて恐いのだから。
求めさえしなければいつだって人はそこにいるのだと思いながら、失うのを恐れ縛り合い身動きが取れなくなる。
そうしていつか居心地の悪さを感じ始め、どこかに出口を探そうとする。
そうしてみてもこの町には自分自身の外どこにも出口など有りはしない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夕暮れの駅舎には誰もいない。
今日も電車が止まっていて動こうとしない。
生きる事に疲れ鉄の蛇に身を差し出す人。
何かを思い詰め、手に鋭い物を握る人。
理由もなく身知らぬ人に命を奪われる子供。
今日も町に血が溢れ出る。
真っ赤な血がドクドクと心臓の鼓動のように流れて来る。
ビルの中にも、駅のホームにも電車の中にも、
線路にも、車の中も、
バスの床にも、通りにも、どこからどこまで町は血で満たされる。
私の手の平からも血が滲み出る。
拭いても拭いても溢れて来る。
何の痛みも無く。血が私を追って来る。
どこまでもどこまでも追って来る。
 
 
誰がこの町をこんなに血まみれにしてしまったんだ。
一体私が何をしたから。私が何をしなかったから。
生きる事がどうしてこんなに難しくなってしまったんだ。
私達が作りたかったのはこんな町だったのだろうか。
安全と効率を求める心が精密な町を作り、
偶然の楽しみや柔軟な心は失われ町は私達を押し潰す。
人は同じように反応し、同じように喋り、同じ顔をし始める。
押し潰された心が吹き出し、町は不安に満ち溢れ、子供達は気が狂う。
 
 
もうここにはいられない。
僕には今鎌が必要だ。
空を切り裂き空気を切り裂き時空の因果を切り裂き、向こう側に突き抜ける鎌が必要だ。
柄の黒く太い刃の鋭いのがいい。
もうここにはいられない。
どこまでも走るんだ。
大地に映る僕の影はまるで蟷螂だ。建物の影にいる人は僕を止めようとしない。
 
どうしてなんだ。
僕が怖いのかい?
僕だって怖いんだ。
皆んなが怖いのは僕の狂気なのかい?
それとも自分の狂気かい。
気付いていようがいまいが僕達はいつだって私という狂気の、時代という狂気の、一人の犠牲者なんだから。
狂気はいつも美しいものさ。
それは悲しい程に。
狂気が僕を向こう側に連れて行ってくれる。
走れ走れ息を切らせて。
もっともっと壊すんだ私の何もかも。
町がどんどん遠ざかる。
赤い空が歯軋りをする。
薄寒くなり、どこにも身の置き場か無い。
背中の方から世界に犯されて行くような感覚。
連続する電柱の後には人が一人ずつ隠れている。
赤い鐘の音が地平に響き渡る。
金属の擦り合う音と警笛音。
踏み切りの中央で止まっている自動車の中にはまだ人の影が見える。
走るんだどこまでも
もう戻れない。
世界はどんどん後退する。
僕は何処へ行きたいんだ。
僕は何が見たいんだ。
こんな荒れ果てた寂しい町で。
何処まで走っても似たような町並が繰り返すだけ。
僕は息を切らせて諦め座り込んでしまう。
僕は何も変わらない元の町にいる。
僕は何処にも出られない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五感との関係を失った気味の悪い沢山の情報が行き交い、異様な想像力が拡大し、
何もかもが遠く確かな手触りを失い、虚構と実体の境い目の曖昧な町。
何処にも辿り着けなかった私は夕日の落ちた町を歩き、家路を辿る。
ビルの谷間の暗い街角には脳に作用する薬物を売る人の影が立ち、
塞がれた世界で心の中に出口を探そうとする人が吸い寄せられる。

 

 

 

新しく物を確めて行こうとする考えは古い秩序を壊してしまい、

大人達が知らずに作った虚ろな世界に子供達は生まれて来る。

大人達は新しい秩序とそれを守らなくてはならない理由と、生きなくてはならない意味を言う事が出来ない。

彼等自身も分からないのだから。

ガード下の家のガラス戸には怪しい人の影が写り、

下りの坂道でもう一つの足音が重なっているのに気が付いた。

足音が私を追って来る。そっと建物の影に隠れて遣り過ごす。

街灯光の中を黒い靴が通り過ぎた。思い過ごしかも知れない。

 

 

 

路地の突き当たりのアパートの鉄の階段を上がり、鍵を探し部屋へ戻った。

テレビのニュースは海の向こうの遠い国で起きている戦争を映していた。

何千年間もそうであったのと同じように今日も町に憎しみが溢れている。

 

 

 

私はある時無より人の住む町に生まれて来た。

そうして世界と自分がある事を知り、この町の歴史を教えられた。

そうして次の世代に伝え、又無に帰って行く。

これは何んと不思議な恐ろしい事だろう。

今夜も眠りという意識の死がやって来て、

もし明日目が覚めたら自分と世界がある。

 

晩夏の西日がプロパンガスのボンベを晒し、

商店街を通り抜ける夕暮れの風に秋の気配を感じ始めた頃、

この町で初めてあの男に出会った。

線路の向こうの商店街に出掛け、駅の階段を登っている時、丁度上まで上がった男が振り返り私と目が合った。

 

 

まるで私が後から来るのを知っていたかのように。

私が登り切るのを待ち、横を通り過ぎるのを見ていた。

七十半ばの日焼けした厚い顔の皮膚に皺が良く似合い、

目が異様に赤く、見知らぬ人でありながら奇妙な親しみを感じた。

以前にどこかで出会っているのかと思い、

その後頭の中に仕舞われているものを探してみたが、どうしても思い出せなかった。

 

二度目にその男に出会ったのは町の外れに在る浄水場の入口で、

中にある沢山の浄化施設のプールを見ていた。

通り過ぎようとしていた私に気付き、手を上げた。

三度目は線路の近くの変電所。やはり塀越しに中を覗いていた。

そうして晩夏が眩しく光るスーパーマーケットの広い駐車場で出会った時、

どちらからともなく挨拶をして、金網のフェンスの前に二人でしゃがみ、初めて話をした。

 
 
「近くにお住まいですか」
「そうだね」
「今日はここにお買い物ですか」
「いいや、ここに来たかっただけ、もう直ぐに夏が行ってしまうからね」
「最近よく会いますね」
「そうだね」
「もう長い事この町にお住まいですか」
「私も私の父もその又父もこの町で生まれたんだ。静かでいい町だね」
 
「僕は近頃息苦しい」
「気持次第さ、でも昔は色々な事にもっと隙間があった。町にも人の中にも」
「隙間ですか」
「そう誰のものでもない物があったんだ」
 
「僕の中にもですか」
「隙間は無形のものだ。言葉にも形にもならない。
何かを伝えようとすればする程町には心がいっぱいになる。
誰も自分自身の空白と向き合うことはなくなり、神聖な物は消え町は閉じてしまった」
 
 
その男は大売り出しの幟旗が風に揺れて光るのに目を遣って言い、口を閉じてしまった。
私は店内で買い物を済ませた後彼を探したが駐車場に彼の姿は無く、
その後彼に会うことはぱったりと無くなった。
夏と共に行ってしまったかのように。      
 
 
町に秋がやって来ている。
秋には町に奇妙な出来事が起こる。
それは太陽の角度と気温と湿度と僅かな風と人工物と、
それを感じられる人間によって起こる。
 
街角の向こうに音が無限に響いて行きそうな程空気の澄んだ空間。
夏よりも傾いた秋の陽射しは建物の白い壁を強く照らし、
夏の日のアスファルトの上に置き忘れた黒い影は悲しみを感じるほど深くなる。
その静けさの中で町は人の作った意味を失い、深い孤独が現れ、
一瞬間町は開かれる。
 
ここには世界がただ在るという不思議がある。
時間の経過の因果性で物を考えようとする人の脳はこの不思議さに耐え切れず、
様々な神話を作ったのかも知れない。
不思議さに魅せられた人はそれを何とか言い表そうとして誰よりも雄弁になる。
そしてその内もどかしさを感じ始め、あらゆる説明は徒労をもたらすに過ぎない事を予感し沈黙する。
頭脳に神聖な空白が訪れ、意味から解き放たれた人は進む事を忘れてしまったような時間と、
明るい光の中で起るに任せてただ遊ぶ。
街角で、シーソーで、ブランコで、まるで呆けたように薄笑いを浮かべ、目的も無くゆっくりと歩く。
 
 
秋の日が大きく西に傾き、長く伸びた人の影に寂しさを感じる頃、
遊び疲れた人達は人との関係を思い出し、人との繋がりの中に戻って行く。
自分を待っていてくれる人の所へ帰らなくてはならない。
多分外にも何処にも行く所が無いのだから。
 
町は静かに閉じる。

 

秋の大雨が夕方に上がり、残った雨雲を夕日が染め、

不吉を思わせる程の物凄い夕焼けが広がり、

駅の階段の上から仕事帰りの人達が足を止め黙って見ていた。

皆んな世界が終わってしまわない事を祈っていたのかも知れない。

 

 

深夜を大きく過ぎた町は寝静まり、西の空に掛かる秋の下弦の月が不気味な黄色で、

こんな月に見られている事も知らず屋根の下で人は眠る。

この月は人に恐い夢を見させているのかも知れない。

一方で二十四時間営業の店の前には、

一人の夜の深さ闇の大きさに耐え切れない若い命が人を求めて集まり、眠らない町がある。

 

 

 

 


 

 

 

北風がビルの谷間の車道に幾つか残っていた茶色の枯葉をどこまでも追いかけて行った日の後、町に冬が来た。

町の人はもう長い間暖かい日が来ない事を受け入れる。

 夕暮れの駅に電車が入る度、改札口から人が吐き出される。

後から後から。

走るようにホームの階段を駆け降りて来て、

一番に改札口から出る人。

人の波に押し出されて来る人。

バッグを肩から掛け、人影の消えた階段をゆっくりと最後に降りて来る人。

赤いポストの前を小さな埃っぽい風が吹き、

冬の日が落ちる前の時間、身の置き場のない薄寒い駅前広場を家路を急ぐ人が続く。

帰宅を待っていてくれる人のいる人もいない人も。

 

 

 

欅の向こうの茜色の空が夜に追われて色を落として行き、

巨木の下の民家には夕餉の明かりが漏れ、家の中の暖かい生活を思った。

私も夕闇に追われるように部屋に戻り、直ぐに布団に潜ってしまった。

襲って来る夕暮れが恐かったのかも知れない。

暫くすると身体が温まり、丸めていた手足を伸ばすと気持が落ち着き、奇妙な事を思い出した。

ここの生活に根を下ろし、もう随分と長い年月が過ぎたが、

この町には私が未だ行った事のない場所があった。

それは私の住んでいる所から西の方角で、特に変わった物や興味の惹かれる物も無く、

只当たり前の静かな住宅地が続いている所だ。

知り合いもなく商店街もなかったため、用事がなかったせいもあるけれど、

若しかしたら私の心の何処かで行ってはいけない所と思っていたのかもしれない。

そこにはきっと何か本当の事があり、それを見付けてしまうのが恐かったのかも知れない。

明日はどうしても行かなくてはならないと思いながら目を閉じた。

 

 

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