危うい町 <>

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は前日の夕焼けが嘘であったかのように、朝から冷たい雨が町を濡らしていた。

防水性のある上着を捜し出し長靴を履いたのは、

これから先の天候の厳しさと、未だ行った事の無い目的地までの遠さを予感したのかも知れない。

黒い雨傘を差し、アパートの前の砂利の駐車場を出たのは午前十一時頃の事であった。

見知らぬ土地を目指さなくてはならないと思う心の不安が、

日頃見慣れた町の様子の一つ一つがとても大切で愛おしい物と感じさせた。

 

 

東西へ走る通りへ出て右に曲り、唐楓の植えられている歩道を西へ向かった。

片側一車線の広くもない道路の両側の所々に商店がある。

人通りの疎らな歩道を一時間余り歩き、T字路に突き当たった。

何時もはここを右か左に行く。

 

この向こうは住宅地で所々に狭い路地への入口がある。

信号が変わるのを待ち右に曲り、少し歩いて気に入った道を見付け入り込んだ。

 

暗い雨の日にガラス窓に掛かっているカーテンの中に蛍光灯が付いていて、

人の匂いはするけれど人の姿は見えない。

雨の音と私の足音のほか何も聞こえるものも無い。

少し行くと再びT字路に成り右に折れ、

次の角を左に曲がり、又次を右に曲がり、

そんな事を繰り返しているうちに、まるで迷路に入ってしまったようで、

どちらの方角に進んでいるのか全く分らなくなってしまった。

晴れていれば太陽の位置で見当が付くのだけれど、この暗い雨空ではそれも出来ない。

朝から歩き通しで足腰に疲れを感じ、

大きな軒下を借り傘をたたみ、凍えてしまった手を温めた。

目を閉じ少しの間雨樋を流れる水音を聞いていた。

 

若しかしたら戻っているのかも知れないなどど考えていたら寒さも加わり心細くなる。

朝から北西の方から風が来ていたのを思い出し、風に向かいもう一度歩き始めた。

十分程歩き左に曲がると道の前方に灰色の塀が見えて来た。

近くまで行くとコンクリートの壁で、高さが二メートル位あり、私の背丈では全く向こうが見えない。

壁は汚れや傷み具合から想像するとかなり古い時代に建てられたものらしい。

住宅と塀の間に五十センチ位の道とも隙間とも付かないものが続いているのを見付け、右に進んでみた。

暫く行くと壁に古い木戸があるのを見付けた。

まさか開く訳がないだろうと思いながら押すと、錆びた蝶番が少しだけ軋んであっけなく開いてしまった。

恐る恐る私の背よりも低い戸の開いたコンクリートの壁の穴を頭を下げて潜り、

向こう側に出て顔を上げ呆然とした。

前方には家も草木も無い茶色の荒地がどこ迄も続いていた。

 

 

 

 

 

 

ええ、いや若しかしたら、いいや、紛れもなくここは町の外だ。

私は呆気無く町の外の世界へ出てしまった。

こんな所に誰も知らない出口があった。

予想外の事実を目の当りにして、それを受け入れることが出来ず、

頭が空白になって暫くの間立ち尽くしてしまった。

そうなんだ。こうなっていたんだ。

これが私の住んでいる町の本当の姿なんだ。私はやっと見付けたんだ。

落ち着きを取り戻し、この荒涼とした大地はどこまで続くのだろうと思い遠くを見渡した。

 

 

そうして左手の方向に電柱と送電線が続くのを見付けた。

目に見える範囲での唯一の人工物であり、確かめたくなり歩いてみる。

他に何も比較するものが無いため距離感がなく、意外に遠く、近くまで来るのに二十分程も歩いた。

電線は町からコンクリートの壁を越えて出て来て、茶色の丘の向こうまで延びている。

送電線の下には道がどこまでも続いている。

送電線の行っている方向にはきっと人の住む知らない町がある。

私はこの道を辿って行かなくてはならないと思った。どうしても。

 

 

道は所々に水溜りのある泥濘んだ砂利道で、朝長靴を履いたのはこの道に来る事を予感したのかも知れない。

緩やかな起伏が繰り返される地形を道は真直ぐ西へ延びているように思われた。

冷たい雨は止む事無く降り続き、少し風も加わって来た。

四つの丘を越え、三つの谷を渡り、楓の林を抜けて、三時間以上も歩いて出た平地に大きな樅の木を見付けた。

雨も小降りになり、巨木の根元に休息した。

目を瞑っていると不安がやって来た。

一体この向こうに本当に町があるのだろうか。

仮にあったとしても今日中に辿り着けるのだろうか。

日暮れも近付いて来て、これから元の町へ戻ったとしても、この短い冬の日では途中で真っ暗になってしまう。

雨宿りできるような所も全く無かった。

町を出た時の自分の軽率な決断を恨めしく思った。

 

 

小さな足音と何かの動く気配に驚き、我に返り目を開けた。

目の前にびしょ濡れの犬が一匹私を見ている。

若そうではない黒っぽい痩せ犬だ。

鋭い目でもなく、優しい目でもなく、感情を表さない目で只私が何者なのか確かめている様子だ。

私に興味を示している様でもない。

私の周りをうろうろして他の物の匂いを嗅いだりしながら時々私をちらちら見ていたが、

そのまま道を西の方へと歩いて行ってしまった。

犬が去った後、私の頭の中がぶつぶつと呟いていた。

 

 

びしょ濡れの犬。

お前は何処を走って来たんだ。

この冷たい雨と風の中を。

お前も沢山の兄妹達と母犬の乳房にぶら下っていた時があったんだ。

何の恐怖も無く。

 

そうしてお前は放り出され追い詰められて牙を剥いて生きて来たんだ。

あばらの浮いた腹に食い物を入れたのは何日前のことだったんだ。

その鼻で牝犬の尻を追った事もあったんだ。

どこかにお前の子供でもいるのかい。

 

瞬時の出会いと瞬時の別れの中で、何の残滓も残さずに生きて来たんだ。

お前は私に敵対することも無く媚も売らない。

お前は一度だけ私の匂いを嗅ぎ私を確かめ、分かれた後直ぐに忘れてしまう。

 

今夜は何処で眠るんだ。

決まった塒はあるのかい。

お前もまだ生きるんだ。

この不可解な生を。

 

 

犬の去っていた方向を見ていると気が付いた。

あの犬は全くの野犬ではなさそうだ。

人との付き合い方も知っているようだ。

それならばこの辺りに人がいるのかも知れない。

そうだ、もう町が近いのかも知れない。

立ち上がって道に戻り前方を見ると遥か遠い地平の雲が切れ晴れ間が広がっていて、

その下に今まで雨に煙って見えなかった屋並が見える。

 

町だ。到頭来たんだ。私は間違っていなかった。

やっぱり町はあったんだ。

もう心配ない。もう慌てる事もない。

四五十分も歩けばあの町に入れる。

私は雨が上がった道を傘をたたんで歩き始めた。ゆっくりと。

 

 

 

 

 

町が少しずつ近付くに従い別の不安が頭を擡げ始めた。

一体あの町にはどんな人達が住んでいるのだろう。

言葉は通じるのだろうか。見知らぬ私を受け入れてくれるのだろうか。

泊めてくれる宿などあるのだろうか。

 

道の両側に秋の収穫が終わった後の耕作地が広がっている。

ここではどんな農作物が穫れるのだろう。

 

小さく見えていた家々が段々と大きくなって来たが、

夕日の影に入ってしまいはっきりと見えない。

綺麗に澄んだ用水に架る小さな橋を渡り、町の入口に辿り着いた。

立ち止まり少しだけ躊躇った後、影がこちらに伸びる眩しい夕日の逆光の中、町へ入った。

 

 

町は広くない通りを挟んで左右に街道集落のような形を取っていた。

木造の平家か二階建ての家が重なり合うように軒を連ねて並び、

ビルらしきものは見当たらない。

一日の仕事の後片付けをする人。

物売りの人。

夕刊配達の自転車のベルの音。

商店で夕食の買い物をする人。

路地では子供達が遊びの真っ最中で、

ここまで歩いて来た地形から想像すると東の町よりも高地にあるようで、

気温は低いが赤い陽光の中、町は不思議に暖かい騒がしさの中にあった。

それ等総てがとても懐かしく感じたのは赤い夕日と、

半日も全く人のいない所を歩いて来たせいばかりでは無い事に暫くすると気が付いた。

町の建物は決して古い物ではなさそうだが、

様式が私の知っている東の町の三十年から四十年も前の物に似ているような気がした。

そしてその様式は古い物のままではなく、

私達とは異なった利便性や装飾性の目的のために発展して来たもののように思われる。

 

 

町は静かではあるが活気があり、見知らぬ人であるはずの私が歩いていても誰も気にしないで、

それぞれ自分のしなくてはならない事を黙々とこなしている。

町中を西へ向かって歩き町の様子を見て、

家が疎らになり空地や畑が多くなって引き返し、

途中で今日は早めに朝食を取って以来何も食べていない事に気が付いた。

まさかこんな遠い所まで来る事になるとは想像もしなかったので、昼食を持たなくてはならないと思いもしなかった。

町に着いたという安心感が空腹感を思い出させたようだ。

 

直ぐに食べられそうな物を売っている店を探し、

日用雑貨や食料品の置いてある小奇麗な店でパンを幾つか買い求め、

その店の女主人とこの町へ来て初めて話をした。

 

 

「これいただけますか」

「はい。失礼ですけれど、あなたは東の町から来られました?」

「はい。朝出てさっき着いたばかりです」

「こんな小さな町なので余所の人は直ぐに分かります。

それにあなたは雰囲気が違う。昔は東の町とも交流があって、

よく人が来たそうだが今は殆ど無くなってしまい、

今年はあなたで二人目のようだ。この悪天候の中、遠い所良くおいで下さいました」

 

「僕の他にも来た人がいるんですか」

「そう、夏の終わりの頃だったかしら。今年の夏は暑くてね。

やっと着た涼しい日のことだったからよく覚えていますよ」

「どうして今は東の町と交流がないのですか」

 

「東の町が大きく成り過ぎたのでしょう。

元々東の町と私達西の町は同じような兄弟の町だったそうだよ。

でも東の町と西の町はその後違う生き方を始めたんだ。

何故か知らないけれど、それが各々の町の人尾気質に合ったのでしょう。

私は東の町へは行った事はないけれど、昔の人達からそんな話を聞いた事があります」

「この町は賑やかで活気がありますね。東の町は大きいけれど寂しく火が消えたようです」

「ここは便利な物があまり無いから生きるためにしなくてはならなことが沢山あるし、

手を貸し合わなければ出来ないことも沢山ある。皆んな忙しいだけですよ」

 

「今夜はどうしてもこの町で過ごさなくてはならないのですが、

ここには私を泊めてくれるような所はありますか」

「あなたの町のような旅館やホテルのようなものはありませんが、

町の西の外れに自炊で生活する施設があります。

行き場の無い人。一人になってしまった人。ひとりに成りたい人や旅の人や誰が使ってもいい所です。

宿泊料は取りませんが、食べる物は自分で賄わなくてはなりません」

「僕でも泊めてもらえるでしょうか」

「何も問題はありませんよ。入口に泊まる理由と名前を書く所がありますが、

理由の方は嫌なら書かなくてもいい。

私も一人になりたい時があって一度だけ行った事がありますが、静かでいい所ですよ」

「今夜食べる物も、もう少し頂きます」

「何か困った事や分らない事があったら来なさい。宿泊施設は四十分程西へ歩いて林の中にあります」

 

 

礼を言い、茶色の紙袋を受け取り、ガラス戸を閉め店を出た時、

黒い家々の影の向こうに残照が今将に消えようとしていた。

町には街灯の数が少なく、日が落ちた後は本当に暗くなり、

あんなに賑わっていた町からどこかに吸い込まれてしまったように人影が消えている。

 

閉められた家々の雨戸の隙間から漏れる光がちらちら動き、

賑わいが家の中に移った事が直ぐに分かった。

家に足を止め耳を欹てると、母親と子供の物と思しい声も微かに漏れ聞こえて来る。

足音を立てるのを憚る程静かな町を紙袋を抱え、もう一方の手にたたんだ雨傘を持ち、

今夜の宿を求め歩を西へ急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ程店の主人から大丈夫と念を押されていたにも拘わらず、

夕暮れ刻に一度戻った地点を過ぎると、見知らぬ土地で募る寒さの中、

一度消えていた不安が頭の中に育ち始めた。

泊めて呉れる所など本当にあるのだろうか。

歩いて四十分といっても、この暗さでは腕時計の針も見えない。

第一あの女主人だって、人間ではなかった可能性だってある。

そう言えば戸を閉めて振り返った時頬っぺたに髯が、などと考えていたら

到頭前方に何の光も見えない所まで来て、思わず立ち止まった。

宿泊施設は気付かずにもう過ぎてしまったのかも知れない。

でも林は無かったようだし、来た道を振り返り確かめ、もう一度前を見ると小さな光が見え、

それが左右に揺れながら段々とこちらに近付いて来る。少ししてそれが自転車だと分かった。

私をライトの中に捕らえてブレーキの音がして止まり、

ポケットから出した懐中電燈を自分の顔に向けた後、私に光を向け若い男が話し掛けて来た。

 

 

「こんな時間にどこに行かれます」

「私は夕方この町へ来て、宿泊所へ行きたいのです」

「ああ、それならもう直ぐだ。あの林の中にある。私が連れて行きましょう」

「それは助かります。あなたに会わなかったら私は生きていなかったかも知れない」

「そんなに大袈裟に言わなくてもいいよ」

「東の町から来て朝から歩き通しで」

「情け無い声を出さなくてもいいお。この町はそんなに恐い物は無いよ」

「だって考えもしなかった知らない町に一人で来たんですよ。しかも雨の中、寒いし心細くって」

「分かった分かった」

 

 

男は可笑しそうに言い、自転車を押し、

道を左に折れ私に懐中電燈を持たせ、足元を照らしながら二人で落葉した林の中へ入って行った。

前方に仄かな明かりが見えて来て、男はそれが目的地の玄関の光である事を私に教えた。

近くまで来ると建物は木造の平家であるらしい事が分かった。

玄関の庇の明かりの中に入り、コンクリートの階段を二つ上がると、

ガラス戸の横の木の板に小さく町営宿泊所とだけ書かれていた。

戸を引くと戸車の回転が磨りガラスを揺する音がして開き、中に入った。

玄関口から木の廊下の奥に向かって男が二度程呼ぶと返事がして、

黒いズボンの上に黄色いセーターと防寒ベストを着た少女が出て来た。十六七の少女である。

 

彼女はその男を見るなり直ぐに察したようで、私を見て挨拶をした。

私は無言で彼女を見ながら頭を下げた。

 

「この人はさっき東の町から来たんだそうだ。泊めてやってよ」

それだけ言うと彼は急がなくてはならない理由を彼女に話し、

私が礼を言う間もなく自転車で行ってしまった。

 

 

疲れ果て済まなそうな顔で立っている私に彼女は、

私が泊まるために知らなくてはならない事を手短に説明し非常口を教えた後、

鍵を持ち私を部屋へ案内した。

ドアを引いて開け、中に入り照明を点けると何も無い殺風景な六帖程の畳部屋だ。

彼女は暖房はないが押し入れに布団が沢山ある事を伝え、鍵を置いて出て行った。

とにかく早く横になりたくて、持っていた傘と紙袋を置き畳の上に手足を投げ出した。

疲労による腰や足の裏の痺れを感じていると、ドアを叩く音に気が付いた。

何とか立ち上がり、ハンドルを回して押すと彼女が丸い盆を持ち立っている。

少しだけ笑い、お茶を持って来て、

これは今日だけの特別サービスだと言い、消灯が十時であることを告げた。

又起床時間はなく、消灯があるのは電気の節約のためだけであると言い、明日はゆっくりするようにとドアを閉めた。

 

電気が消える前に食事を済ませなくてはと思い、

彼女が運んできた土瓶から注いだ熱い緑茶を啜り、紙袋を開けパンに喰らい付いた。

持ってきた食料を総て平らげ、もう一杯お茶を飲み、

それから布団を引っぱり出して敷き、明かりを消して潜り込んだ。

布団から目だけ出して何も見えない暗闇を見ながら、

今日アパートを出て以来次々に起こった予想もしなかった出来事の数々を思った。

朝起きた時降っていた冷たい雨。

迷路のようだった西の住宅地。

不思議な壁と古い木戸。

丘を越え、谷を越えどこまでも続く送電線の下の砂利道。

平野に見付けた痩せたびしょ濡れの犬。

地平の空の下に町並を見た時の嬉しさ。

赤い夕日の町へ入った時に感じた不思議な暖かさ。

宿泊所までの暗さと寂しさ。

懐中電燈の光の中で見付けた青年の顔。

昨夜は東の町のアパートで眠ったのに、今見知らぬ町の部屋の布団の中にいる不思議。

布団が暖まってくると疲れと安堵感からか、眠気がやって来た。

遠くなる意識の中、消灯時間を知らせながら廊下を回る彼女の声を聞いたような気がした。

 

 

見た事もない部屋で眼を覚まし混乱して、

少しの時間があってから今置かれている状況と前日の記憶が結び付いた。

部屋の雰囲気が暖かく感じたのは、木の葉模様の茶色いカーテンを通して入って来る弱い光のせいだったのかも知れない。

枕元に置いたはずの腕時計を探し、薄明かりの中、時間がもう十時を回っているのを確めた。

固くなっている腰の筋肉を恐る恐る伸ばし立ち上がり、

カーテンを少し引くと陽光が射し込み畳の上に落ちた。

布団を上げ、廊下に出て前日に教えて貰った洗面所で用を済ませ、角を曲がった所で昨夜の少女と出会った。

 

「よく眠れました?」

「はい、沢山眠りました。夢も見なかったようです。昨夜は突然来てお世話になりました」

「いいえ、ここは管理人が一週間交代の持ち回りなんです。私は今日までです」

 

そう言って彼女は施設のあちこちを説明しながら私を案内した。

前夜はよく分からなかったが、

建物は柱も壁も天井も床も、未だ匂いも新しい節の多い杉材で作られており、

近代的ではないが中々洒落た作りである。

全部で二十部屋あり、今では十人が使っているらしい。

食堂には自炊用の設備が並んでいて、もう皆んなすませた後らしく人の姿は無い。

売店には食料品や日用品が置かれている。

中央のストーブに一人の男が向こう向きに椅子に座っている。

髪に交じる白い物の多さと身体付きから想像すると年配者らしい。

彼女はここまで私を案内すると他に用事を思い出し、スリッパの音を立てて行ってしまった。

食堂のテーブルを前に座り、広いガラス戸に目を遣った。

外には栃の木と思われる冬枯れの林が広がり、木立の間に和らかい冬の光が遊んでいる。

前夜辿り着いた時闇の中に浮かんでいるように感じた建物は、今日は明るい光の中に確かにある。

前夜の怖れや不安が嘘のようだ。

 

ストーブの前にいる男はさっきから全く身動きをしない。

挨拶をしなくてはと思い、後方から近付き前に回り声を掛けようとすると顔を上げ私を見上げ少し笑い、老人が口を開いた。

 

「やっと来たかい。待っていたんだよ。あなたはきっと来ると思っていたよ」

聞き覚えのある声に少しの時間があって、東の町で出会った男に記憶が重なった。

人懐っこい顔も思い出した。

あの日が夏で明るかったせいか、東の町で会った時より白髪も増え、ぐっと老け込んでいるように感じる。

異様に赤かった目は普通に戻っている。

全く予期しない出会いであったにも拘わらず私の中に不思議に驚きが無かったのは、

結果として起こってしまうと何故か予定されていたかのように思えたからなのかも知れない。

椅子を持ち彼の横に置いて座り、話し掛けた。

 

「いつここに来られました」

「夏の終わりだ」

ああ、やっぱりと、この町に着いた時、店で聞いた女性の話を思い出した。

 

「私は昨夜来ました。どうやってあの町を出ました。壁の穴ですか」

「いいや違う。あの町にはそれぞれの人の個性に合わせて沢山の出口がある。

私は公園の西の外れの大きな欅の木の裏側に誰かいるような気がして回ったら、そこが出口だった。

あの町では本当に真剣に探そうとする人の前には必ず出口が現われる」

 

「あなたはここの町を知っていたのですか」

「いいや、でも少年の頃一度だけ父に聞いた事があった。

父も少年の頃東の町から偶然に出て、この町を見付けたと言っていた。

三日間東の町を空け、帰ると大騒ぎに成っていて皆んなから何処へ行っていたのかと問い質されたそうだが、

父は誰にも言わなかったらしい。

子供心にも言ってはいけない事と思ったのかも知れない。

私は父からお前がいつか本当に町を出てみたくなった時に行けるから、それまでは誰にも言ってはいけないと言われた。

母も知らなかったようだ。否、若しかしたら母も知っていて、母は私には言うべきでないと思っていたのかも知れない」

 

「それでは夏の日に東の町のあちこちであなたに出会ったのは、出口を探していたからなのですね」

「何か私の生活にあんまり関係のない所にあるような気がしたから町にある変な所に行ってみたんだ。

私はあの町で仕事をして結婚し、子供も二人育て両方とも独立して私の手から離れた。

両親も随分前に他界して、二年前に妻を亡くした。もうあの町を出てもいいような気がしたんだ」

 

「ここに来るのにどこを歩いて来ました」

「送電線の下の道だ。父もあの道を来たらしいが、私の足ではかなり大変な事だったよ。

あると信じたから来る事が出来た。」

「そうでしょう。でもどうして東の町の人は誰もこの町の話をしないのでしょうか。」

 
「誰も知らないんだ。極く少数のここを見付けた人は決して言わない。
言ってしまったらどうなるのか皆んな知っているからだろうね。
ここを偶然に見付けてしまった人やずっと昔から知っていた人は、この町をそっとして置こうと思ったんだろう。
ここは自然も厳しいようだし、そんなに楽な生活でもなさそうだ。
ここの人達はゆっくりと行くために忙しく働いている。
でも東の町のような寒ざむしさが無い。
ここの人達はあまり急がない。
自分の死ぬまでに何かを為し遂げなくてはならないとも思っていない。
ここでは東の町のように人の羨む良い事もなければ、
見捨てられて放置される事もなさそうだ。
ここでは人との繋がりを大切にするけれど、一人になる事も大切にされる。
人との関係に疲れたら一人になって休み、又人の所へ帰って行く。
ここでは人々がそんな町を作っている。
春になったら町へ降りて、少年時代に来た父の事を覚えている人を捜そうと思っている。
もう東の町には私の父を知っている
人は誰もいなくなってしまった」
 
そう言った後一度窓の外の風景を見てから目を伏せて、もう一度自分の静けさの中に戻って行った。
私は持ち出した椅子を元の場所に戻し、売店で直ぐに食べられそうな物を捜し、
箱にお金を入れ、それを朝食にすると自分の部屋へ戻った。
昨日から次々に起こった予想外の出来事に心がすっかり余裕をなくしていて、
誰もいない静かな所が必要だった。
音のない部屋で横になり目を閉じ、心を休ませる必要があった。
 
 
 
多分一時間程過ぎたと思われる頃、ガラス戸の外に人の声がしているのに気が付いた。
それは二人以上の数人の声で、その中に一際高く若い彼女の声も交じっている。
立ち上がり窓を開けて顔を出すと彼女が私を見付け、
疲れていなかったら外は気持が良いから出てくるようにと元気な声で言った。
 
 
玄関に回って、ここに来て初めて外へ出た。
来た時はそんな余裕もなく気付かなかったが、東の町とは似ても似付かない澄んだ空気に思わず深呼吸をする。
声のしていた方へ行くと辺りに気持のいい土の匂いがしていて、
数人の男女が鍬で穴を掘って野菜を土に埋めていた。
彼女に聞いた所、前日に霙が降り毎年この時期に雪がやって来て、
ここは山に囲まれた高原の町で積雪も多く、
野菜を雪の下に保存して置いて少しずつ使うのだと言い、北西の方向を指差した。
来た時はもう夜で分からなかったけれど、白く雪化粧した山の連なりが林の向こうの遠くに見えていた。
ここは根雪になり、春まで雪に閉ざされる。
今はその準備に忙しいと言い、休めていた手を動かし始めた。
 
 
彼女と一所に作業をしていたのは五十才位の女性と二十才位の青年と、
もう一人は五十後半ぐらいと思われる男性である。
皆私を見て挨拶をして楽しそうに作業をしている。
少しの間見ていたが私は周りの風景を見たくなったのと作業の邪魔をしないようにと思い、
辺りを歩いてみる事にした。
宿泊所の周りは栃、栗、胡桃などの木が植えられていて、その向こうには収穫の済んだ畑があった。
更に行くと小さな水の流れを見付けた。流れに沿って行くと橋が見えて来た。
橋を渡って暫く歩き、赤松の林を抜けると急に開けて冬枯れの草地がどこまでも広がっていた。
この地が一面の雪で覆われる事を思い、人気の全く無い白いしじまの中の心が清められるような寂しさに身を置いてみたいと思った。
木の枝から落ちる雪の音に交じって精霊の声が聞こえるかも知れないと思った。

 

来た道を返し、宿泊所へ戻ると作業が一段落したようで彼女が話し掛けて来た。

「どこへ行ってらっしゃったんですか」

「ちょっと周りを歩いて来ました。他の皆なさんはどこへ行ったのですか」

「作業所です。行ってみます」

そう言って彼女はさっき言った方向とは反対の方向に私を案内した。

宿泊所から少し離れた所にやはり平屋の別棟がある。

深い軒の下には材木が積まれている。

玄関の磨ガラスの戸を右に引いて入ると広い木の床の作業場のあちこちで数人が作業をしている。

 

「ここで加工食品や日用品、子供のおもちゃなどを作って町で売っているんです。

何でも自分の創意工夫で好きな物を作っていいんですけれど、売れなければそれまでです。

そうしてここでの食事などの生活の費用を作っています。

でもここの人達は余り勤勉ではありません。一日食べられる程度しか働きません。

それにここの人達は売れても同じ物を沢山作ろうとはしません。どうしてなんでしょう」

 

そう言われて私は思わずニヤッとして、心の中でそれはきっといい事なんでしょうと言ってしまった。

彼女は不思議そうな顔をして私を見た。

彼女は前夜私を連れてきた青年は町の人で生産品の注文に来たのだと教えてくれた。

作業所からの帰りに、ここでは入浴は男女交替の一日置きで、今日私が入浴できる事も教えてくれた。

旅の疲れが取れるから早く使うようにと勧めてくれて、

出た後は皆んなで私のために食事を用意してくれると言い、

これからは自分の時間で自分の事をしなくてはと、彼女は自分の部屋へ戻って行った。

 

私も自分の部屋に戻ろうとしてその前に食堂を覗いてみたが、

ストーブの前に老人の姿はなく、座っていた椅子だけが残されていた。

 

部屋へ戻り、この町の事が分かりかけて来たような気がすると少し落ち着きが生まれ、

今度は東の町の事が気になり始めた。

私の周りの人達は今どうしているだろう。

誰も私がこんな所に来ているとは想像もしていないだろう。

私がいなくてもあの町は何も変わらずに動いているだろう。

 

電車はいつもの様に沢山の人を乗せて動き、

道路は渋滞し、空気は汚れ、駅のエスカレーターを人々はもっと早くと駆け降りて、

町を空を沢山の電波が行き交って、

皆んなが伝達中毒に罹っていて、いつも人と何かを伝え合っていないと寂しくて、

それでも満たされないで余計に寂しくて、

何故か分からないでいらいらして周りの人に腹が立って、

疲れた目に目薬を差しながら電気の作る画面を見て、

そんな生活が今この瞬間にも動いているのだろう。

 

部屋の天井を見ながらそんな事を思っていた。

 

我に返り腕時計を見るともう彼女が教えてくれた入浴時間を過ぎている。

廊下を二回曲がり突き当たりの入浴場に入ると脱衣所の棚に浴衣とタオルが一セットだけ置かれている。

曇りガラスの戸を引くと、そんなに大きくない白いタイルの浴槽があった。

積み上げられた岩の隙間から湯が湧き出ている。

多分温泉なのだろう。身体を洗い少し熱目の湯にそっと入る。

ここは元々湯治場で、そこにこの施設が建てられたのかも知れない。

馴れて来ると湯の温度も丁度良く感じられるようになり、ゆっくりと肩まで漬かった。

 

二十分程で湯を出て浴衣を着て一度部屋へ戻ってから食堂に向かった。

直接行かなかったのは風呂上りの逆上せた顔で行ったら親切に対して失礼のような気がしたからかも知れない。

嬉しい気持と、ちょっと申し訳ない気持でドアを開けると、

彼女と、昼間一所に作業をしていた他の三人がテーブルに着いて私を待っていた。

彼女は私を見ると手招きをした。

先ず丁寧に礼を言い、用意されていた席に座った。

他の人たちは各々一人で食事を作っている様子で、赤い目の老人は一人隅のほうにいた。

彼女に断り、もう一度立って老人の所へ行き、

皆んなの好意で夕食をいただく事になった事を報告し、再び席に着いた。

 

彼女の言葉に促され食事が始まった。

皆んな今日の仕事の捗り具合、自分達の作った料理の出来などの話をしながら箸を動かしていたが、

その中の五十後半位の男は何を聞かれても、きょとんとして答えず、

誰かが代わって言うと気に入った時だけ、うんうん、そうと言って笑い人の話に相槌を打つだけで、

自分から殆ど話そうとしない。

その事を人に指摘されてもやはり、うんうん、そうと言ったので皆んなが大笑いをした。

それでもどうして皆んなが笑っているのか分からないようで、顔を赤くして困っている。

彼は何かの考えや意見を人と共有したいのではなく、只一所に居られるのを楽しんでいる様である。

又食べ物を口に運び味わうときに見せる本当に嬉しそうな子供のような表情が印象的であった。

 

中年の女性は、でもこの人はこんなだけれどとても頑固で、

私達が何かを進めても自分の気に入らない事は絶対にしないのだとも言った。

流石にそのときは話が分かったようでうんうん、そうとは言わないで、済まなそうな顔をして下を向いていた。

 

 

食事を終え後片付けをしている時に少女が側に来て、私が東の町から来た事をもう一度確め、

若し良かったら東の町の事とどうやってここに来たのかを聞かせて貰う事は出来ないだろうかと話し掛けてきた。

東の町に付いて知りたいのだけれど、あの老人は余り話してはくれないとの事である。

私は少し迷ったが、何故か初めて彼女に会った時から伝えなくてはならない事が沢山あるような気がしていて、

少しの時間の後了承すると、彼女は一度部屋に戻るからここで待っていて欲しいと言い食堂を出て行った。

二十分位すると彼女は着替えてやって来た。

昼間作業をしていた時の男っぽい物とは打って変わって、年頃の少女らしい服装である。

うっすらと化粧もしている。上着を抱えて来て、冷えるからこれを着るようにと渡してくれた。

食堂の中央のストーブの前に二人で椅子を持ち寄り座った。

言わなくてはならないと思う事は沢山あるのだけれど、何から話そうかと迷い話せないでいると、

彼女は口を結んで好奇心一杯の大きな黒い目で、私をじっと見ている。

 

 

「東の町はね、ここから大人の足で四時間位歩いた所にある。

町の大きさと人の数はここの十倍以上もある。いや百倍かも知れない。

私もあの町の本当の大きさは分からないんだ。

沢山の物や人を引き寄せて呑み込み、どんどん大きくなっている。

今この瞬間にもね。

そうしてあそこの町には沢山の知識がある。

誰にも見えない小さな物から誰も行けない遠い所まで。

人の持ち切れない程の知識がある。それでも皆んなはもっと知識を求めている。

人はいつも空白を恐れている。

あの町では人々は競争しながら仲良くしなくてはならない。

でもそれは時として、とても難しい事でもあるんだ。」

私は話し始めた。

 

私は人を呑み込んで動く訳の分からない大きな力に付いて話した。

そして一度動き出したらそれを止める事はとても難しい事も。

 

無機質な新しい巨大な建物と、その間に沈む昔から変わる事のない赤い夕日について話した。

 

毎日のように血が流れる街について話した。

大勢の人込みの中の寂しさについて話した。

街角の暗がりに立つ怪しい人影の話をした。

町の中央に立つ巨大な白い煙突の話をした。

街の中を流れる黒い川と赤い川の話をした。

大きな力を生み出す巨大な光の話をした。

町から熱が吹き出す暑い暑い夏の話をした。

秋の日に街角に現われる不思議な出来事について話した。

心が凍り付く寂しい冬の話をした。

青黒い雲の下の不穏な春の話をした。

夕暮れの空に立つ誰もいない駅舎について話した。

どこまで走っても出口の見付けられなかった夕暮れの街について話した。

偶然に見付けた壁の穴の話をした。

どこまでもどこまでも続く砂利道の話をした。

躓いて転びそうになった事の数と、泥濘に足を取られ困った事の数について話した。

雨宿りした大きな木の話をした。

木の下であったびしょ濡れの犬の話をした。

生きるために食べて来た命の数について話した。

生きるために吐いて来た嘘の数について話した。

困って目を逸らしてしまった事の数を話した。

地平に西の町を見付けた時の嬉しさについて話した。

町へ入った時の美しい夕日の話をした。

そうして最後に私が在る事の不思議さと恐ろしさについて話した。

私は明日ここが雪で閉ざされる前に東の町へ帰らなくてはならない事を話した。

そうして東の町の人々はどこかであの町がとっても好きな事を話した。

 

 

 

 

 

 

彼女は一言も喋らず私を見て私の話に聞き入っていたが、

頭が空っぽになって来てもう言葉が出なくなり、沈黙し目を瞑ると、

少しの時間があってから彼女は有難うと言った。

彼女はこれから自分の部屋へ帰ると言ったが、

私は夕食を一緒に食べた、うんうん、そうの男の人の事が何か気になり、

聞いてはいけないのかなと思いながら彼女に彼の事を聞いてみた。

彼女は気にする様子もなく私に話してくれた。

 

彼女の話によると彼は四年前、どこからかこの町へ来たそうで、

尤も彼女はその頃はまだ小さかった、そのときの記憶はそんなになく、

よくは知らないらしく、後になって人から聞いた事らしい。

彼は一枚の絵と、何かの入った布袋一つ持ってやって来たらしい。

彼はその袋から何かを取り出す時中身を全部あけて並べるので、

皆んな面白がって見ていて、彼女も余り見た事のない彼の袋の中身の品々を羨ましく見ていた記憶があるそうだ。

 

彼はこの町をうろうろして、黙って皆んなにその絵を見せたらしいが、

それはとても奇妙な絵でこの町の人は誰も分からなかったらしい。

でも悪い人ではなさそうだという事で、町の人がこの宿泊所へ連れて来たらしい。

彼は始め全く喋らなかったので、皆んなは言葉に障害があるのかと思ったが、

馴れて来るに従い少しずつ話すようになったらしい。

しかし彼がどこから来たのかは決して言わなかったという。

それ以後彼はここで仕事をしながら絵を描いているとの事だ。

私はなぜか彼が持って来たという絵に興味が湧き彼女にそれはどの様な絵なのかと尋ねた所、

彼はその時以来その絵を仕舞ってしまい、人に見せる事はなく、彼女も一度も見た事はないそうで、

見た人の話によると青い空に立っている奇妙な塔の絵だという。

私はどうしても見たくなり彼女に相談した所、

今日はもう遅いので明朝彼の部屋を訪問してみましょうと言い、彼女はストーブの火を落とした。

別れ際に彼女が貸してくれた上着をたたんで礼を言い渡すと、

「お話を聞かせてくれて有難う。お休みなさい」と言い、部屋へ帰って行った。

私も自室に戻り、前夜は疲労と興奮で訳も分からずに眠ってしまったが、

今夜は静かに眠れそうだと思いながら部屋の明かりを消した。

 

 

ドアを叩く音に目を覚まし、

顔を出すと彼女が明るく笑いながら「もう朝だよ」と言って私に起床を促している。

床を上げ洗面所に行ってから彼女に連れられて絵描きの部屋を訪ねた。

ドアを二回ほど叩くと声がして彼の眠そうな顔が現われた。

 

「眠っていたんですか」と彼女が言う。

「いいやさっき起きました」

「この人があなたの塔の絵を見たいんだって」

「あの絵は押入れの奥の方に仕舞ってあって、出すのが難しいんだ。」

「そうなの。本当は余んまり人に見せたくないんでしょう」

「そんな事はないけれど」

「あなたがそんな事はないと言うときは大抵そうなのよ。この人がとっても見たいんだって。」

「そう、でもねえ」

 

そう言って彼は済まなそうな目で私を見て口を噤んでしまった。

私もこれ以上彼に要求してはいけないと思い、彼女も私の顔を見て私の心を察したようだ。

彼はその替わり、最近描き上げた別の絵を見せてくれるという。

部屋の奥に彼がアトリエにしているとても狭い場所があり、

そんなに大きくない絵が画架に立て掛けられていた。

散らかっている物の間を足の踏み場を探して近付き、彼の横に立って絵を見た。

それは一昨日私がこの町へ来て店でパンを買い、ガラス戸を引いて出たその瞬間の絵であった。

そこには街角が描かれていた。

絵の中央に暖簾の掛かった食堂と思わせる建物が描かれていて、

その引き違い戸から通りに明かりが漏れている。

その向こうに描かれた暗い家々の屋根の上に、少しだけ残っている夕映えが今将に消え落ちようとしていた。

角を曲がって、店の影へ背を丸め消えようとしている黒い影が私その物のように見えた。

只違っていたのは、絵の町には所々に積み固められた雪が描かれていた事だ。

少々興奮しながら画題を聞いた所、彼に会って以来初めて強くはっきりとした口調で「雪の残る町」と一言いった。

彼自身も寂しそうな目でその絵を見ていた。

彼は四年前にこの町に来たというが、その時彼も私と同じようにあの店から出てこの風景を見たのかも知れない。

 

私は暫くの間絵に見入っていたが、どうしても欲しくなって彼女にその気持を伝えると、

意外にも彼は承諾したようで、値段を聞くと彼は彼女に私には聞き取れない小さな声で言った。

彼女は今あなたの持っているお金で、可能な限り多くだそうですと言って笑った。

こんなに遠い旅になるとは想像もしなかったので、生憎財布の中に持ち合わせはそんなに多くはなく、

全部使ってしまったらこれから東の町までの長い道中心細いと思い、

昼食代とその他幾らか残して彼に相談すると彼はとても喜んだ。

彼女が「生まれて初めて絵が売れたんでしょう。良かったね」と言うと、

やっぱりうんうん、そうと言ったので二人で笑ってしまった。

 

彼は私のこれからの長い旅を知っているかのように、絵を丁寧に梱包してくれたが、

それが何とも不器用で、紐の掛け方もちょっと変で、彼女がそれを指摘すると、赤い顔をしてこれでいいのだと言い私に渡した。

その時私はもしやと思ってあなたは東の町から来たのではないですかと聞いた所、彼は妙に真剣な顔をしてかぶりを振った。

私がそう思ったのは東の町には何の目的かも分からない不思議な塔があちこちに在るのを思い出したからのようだ。

 

彼と彼女に礼を言い部屋で帰りの支度をした。

と言っても持ち物は傘と絵だけで、暗くならない内に東の町に着かなくてはと思い直ぐに部屋を出た。

廊下を通り、食堂に行くと赤い目の老人が昨日と同じようにストーブの前に座っている。

近付くと私が帰ろうとしている事が分かったようで、

「あなたが東の町へ帰ったらもう当分ここには来ないだろう。

私の足では向こうに帰るのは難しい気がする。でも又いつか会えるような気がする」とだけ言った。

 

頭を下げて別れを言い、食堂を出ると玄関に私の黒い長靴が並べられていて彼女が私を待っていてくれた。

何度も何度も礼を言い、左腕に荷物を抱え戸を引いてでようとした時、

後ろから「私いつか東の町へ行ってみたい」と声がして振り返ると、彼女が私を見てにっこりと笑った。

外へ出て林の中に入った時、もう一度振り返ったが玄関の戸は閉じられていて、

もうそこに彼女の姿はなかった。

 

外は昨日の晴天とは打って変わって、急がないと雪が追い駆けて来そうな曇り空の冬の日だった。

冬枯れの枝の先に留まる寒雀の声に送られて、これから私は東の町に帰らなくてはならないのだ。

長い長いあの道をもう一度歩いて。

林を抜けて町の中央の通りへ戻った時、何気なく振り返った。

その時偶然に目が行った西の方向に道と送電線がどこまでも続いていた。

来た時には気付かなかったけれど、もしかしたらこの向こうに矢張り別の町があるのかも知れない。

そしてきっとこの町の人はそれを知らないのかも知れないと思ったら不思議な気持になった。

 

二日程ゆっくりと休んだせいで足が軽くこの分なら東の町に早く着けるかも知れない。

歩が進むに従い、道の両側の所々に住宅が現れ数が増し、

行き交う人の数も増えて、更に行くと家の密集する町の中に入った。

町は午前中の忙しさの中に在った。

人や荷物が往来して、店先に品物が並べられ、店の前が掃き清められて、学校に上がる前の小さな子供達が走り回っている。

人々は今日一日の仕事の準備に忙しく、私が歩いても注意を向ける人もいない。

時間が許すのなら狭い路地に入り、この町の生活を具に見たいのだけれど

今日はこのまま行くしかない。

パンを買った店を見付け挨拶をしなくてはと覗いて見たが女主人の姿はなく、このまま帰る事にした。

町の東出口に辿り着いた時一度振り返り、

いつか又機会があったら必ず来たいと思いながら通り過ぎてきた町を暫く見ていた。

その時は皆んなともっとゆっくりと話したいと思いながら。

 

意を決してもう一度歩き始めた時小雪が舞い始めた。

雪に追われるように町を出て用水に架けられている橋を渡った時、

後ろに小さな足音が付いているのに気付き、振り向くと一匹の犬が付いて来る。

それは紛れもなく大きな木の下で出会った犬だった。

 

立ち止まり、しゃがんで手を出して呼ぶと犬も止まってしまい決して近付いて来ない、

仕方がなく私が歩き出すと犬も歩き出す。

私がゆっくり歩くと犬もゆっくり歩く。

私が足を速めると、犬も早める。

そんなことを何回か繰り返しながら一定の距離を保ったまま、犬と私は奇妙な連れになった。

そして我々は到頭大きな木の下まで来てしまった。

来た時と同じように木の根本に腰を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

気が付くと雪は止んでいて、西の町を出たときより幾分空が明るくなって来たような気がする。

今頃山に近いあの宿泊所の辺りは大雪になっているのかも知れない。

私はあの少女のことを思い出し、どういう事情で彼女はあそこにいるのだろうと思った。

犬は相変わらず私の周りをうろうろして、

私が立ち上がり東を目差し歩き始めようとすると一度だけ私の顔を見て向きを変えて町のほうへ帰って行った。

私はもう一度一人になって傘と絵を持ち道を急いだ。

再び砂利道はいつ終わるともなく続く。

しかし来た時のように泥濘や水溜りはなく、そんなに難儀する事もなく進めた。

時々休みながら丘を越え谷を越え幾つかの林を抜けた。

 

 

 

そうしてその間来た時と同じように誰一人出会う事はなく、

小高い丘を登り切った後足も痛くなって一休みしようと思った時、

遥か前方に懐かしい人工物の連なりが見えた。

私は「東の町だ」と思わず呟いた。

 

 

少し休んだ後、足を引き摺り時々転びそうになりながら丘を下ると、

高いコンクリートの壁に囲まれた東の町の一部が近付いて来る。

しかしそれは懐かしさと同時に異様な物で、西の町は周りの自然に融け込んでいたように感じたけれど、

夕日に照らされた東の町は何もない荒涼とした周りの世界に対して排他的で、

それは欲望と悲しみの両方を感じさせる物であった。

そうして私はこの中に戻らなくてはならない。

それでも私の東の町だ。

やっと帰れるんだと思った時、私が町を空けた三日間、ここでは変わらない生活があったのだろうか。

何か大変な事でも起こっていないだろうか。前と同じ町が在るのだろうか。

知人達はいるのだろうかと、様々な不安がやって来た。

 

壁の下に辿り着き、壁に沿って左へ二十分位歩くとあの木戸が見付かった。

若しこの木戸が開かなかったらと思い、願うような気持で引くと、出た時と同じように少し軋んだ音がして開いた。

背を屈めて潜り、東の町へ戻った。

 

なぜか何も悪いことをして来た訳でもなく、そんな必要もないのに住宅地を人に気付かれないようにそっと歩く。

幸い誰にも見られないで抜け出て大通りへ出た。

さあもう大丈夫だ。もうこっちの物だ。

私は誰からも咎められる必要はない。私はここの住人だ。

そんな独り言を頭の中で言いながら歩いた。

私は何事もなかったように振舞わなくてはならないのだ。

 

大通りを東に進み見慣れた地域に来た時は短い冬の日が暮れ始めて、

いつも行く文具店を覗くと主人に「やあ元気かい」と声を掛けられてやっと安心した。

「私は相変わらずですよ」と答えたが心の動揺が見られてしまったのかとちょっと心配した。

自分はこんな大変な経験をして来たのに誰も知らないんだと思った時、少し嬉しい気持になった。

しかし暫くすると別の考えがやって来た。

一体この町の多くの人は本当に西の町を知らないのだろうか。

それとも若しかしたら皆んな知っていて、知らなかったのは私だけだったのかも知れない。

 

そんな事を考えながら最後の角を右に曲がってアパートのある路地へ入る。

前の駐車場で下の階に住んでいる主婦に出会った。

買い物帰りらしく「二三日見なかったけれど、どうしていたの。雨戸が開かないから心配していたのよ」と言われ、

私がその間にして来た大変な経験を思わず話したくなり、気が付き黙った。

「いいやちょっとね」と誤魔化して持っている荷物を持ち上げ、

「とってもいい絵を買って来たんだ」と言い、階段を上がって部屋へ戻った。

部屋はいつもの通り私を受け入れてくれたが、三日間空けた部屋は空気が冷え切っている。

直ぐに暖房を入れて部屋を暖め着替えた後、夕食を取り少し休んでから布団に入り目を閉じた。

 

 

 

 

 

そうしてそれから四年の歳月が流れた。

私もこの町も何とか生き続けている。

相も変わらず毎日のように受け入れ難い出来事や、事故は起き、様々な摩擦の中で皆んな生きている。

あの予期しない旅から帰った直後は西の町の事を時々誰かに話したいという欲求に駆られる事があったが、

段々と忘れてゆき、近頃は思い出す事も少なくなった。

不思議な事にもう一度あの町に行きたいとは思わなかった。

あの町と経験した事は私にどのような意味を持たせたのか、良く分からない。

只少しだけ変わったのは、私が町で人に出会った時、以前より気軽に挨拶したり声を掛けられるようになった事だ。

そうしてみると意外に人々の反応は良く、

あんなに冷え冷えと感じていた町も、何か暖かく思えるようになった。

この町の姿というものは自分次第なのかとも思うようになった事ぐらいかも知れない。

 

西の町で買って来た雪の残る町という画題の絵はとても気に入り額装して自分の部屋の壁に掛けておいたが、

ある時、隣の駅の近くで喫茶店を経営する友人女性が遊びに来て大変に気に入り、

彼女もこの画家の絵が欲しいので作家は誰でどこで手に入れたかと執拗に聞かれ、

それは事情があってどうしても教えられないと言った所、

それなら喫茶店に掛けたいのでこの絵をぜひ譲って欲しいと懇願され、

私もどうしても手放したくなかったので彼女に貸し出す事にした。

彼女の熱意からしてもう私の手元には戻らないかもしれないと思いながら、

この作品を私のアパートに埋もれさせてしまっているのは惜しい様な気がして、

彼女の所に置けば多くの人に見て貰えると思い、借用書を取り渡した。

彼女の喫茶店が私の住んでいる所よりも西にあるので、

時々訪ねてコーヒーを飲みながら絵を見るのが、西の町へ行くような気がして私の楽しみの一つにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

一週間程前の事、眠れない夜に西の町で出会った人たちの事が在り在りと思い出され、

夕方電車に乗って暫く行っていなかった彼女の喫茶店を訪ねた。

入って挨拶をすると彼女が少々興奮気味に話し掛けて来た。

彼女の話に由ると二日前に二十歳位の目の大きな娘さんが店に入って来るなり、

この絵を見付け大変に驚き、その後涙含んで来て懐かしそうに雪の残る町を見ていたらしい。

そうしてこの絵をどこで手に入れた野かと聞かれ、

彼女が私の話をするとその娘さんは深く頷いて、それから藤で編んだ手下げバッグから絵の道具を取り出し、

一時間程かけてその場で絵を描き、私に渡して欲しいと頼まれたとの事である。

友人の話に由るとその娘さんは三年前に親の反対を押し切って家出同然にこの町に絵の勉強に来て学校に入り絵を習ったが、

どうもこの町の空気に馴染めず、明日は故郷に帰ると言って店を出て行ったらしい。

 

私は直ぐに西の町で出会った少女と記憶が重なり、友人に特徴を尋ねるとその通りだと言い、

一体彼女は誰で、いつ何処で出会ったのか聞かれた。

私はそれに付いては答えず、早く絵を見せるように催促すると、

友人はカウンターの下から仕舞ってあった絵を取り出して私に渡した。

 

それは細いサインペンで描かれた線画に彩色を施したもので、

そこには林の中にひっそりと立つ西の町の宿泊所が描かれていた。

よく見ると玄関の横の壁には、彼女と老人とあの絵描きが仲良く日向ぼっこをする姿が描かれていた。

 

彼女はあの真剣な大きな目でこちらを見ていて、

絵描きは済まなそうな顔でちょっと下を向き、老人はこっちを向き手を上げていた。

私は別れ際に老人がいつか又会えるような気がすると言ったのを思い出した。

絵の右下にはクレヨンの文字で、あなたと出会った遠い西の町の宿泊所と書かれていた。

 

私が絵に見入っていると友人の女性に雪の残る町の絵とこの絵の西の町の宿泊所はどういう関係にあるのかを聞かれた。

私は何も答えずいつもの様にコーヒーを注文したが、

色々な事を頭の中でどう纏めたら良いのか分からず、黙って中空を見ていた。

出されたコーヒーをいつもより砂糖を少し多く入れて飲んだ。

 

一時間程店にいて、帰ろうと思い席を立つと友人女性が「大事な絵なんでしょう」と紙袋を出してくれた。

支払いをする時、ありがとうと言うと友人は少しだけ微笑んで「又来てね」と言った。

店を出る前に振り返り、もう一度壁に掛かっている雪の残る町を見た。

私は帰りの道すがら彼女の事を考えていた。

あれから四年も経ち少女は良い娘さんになっただろう。

親に反対されたと聞いたが、あの宿泊所にいたのはそのためだったのかも知れない。

この町へ来た時、一体どんな気持で一人であの長い長い送電線の下の砂利道を歩いたのだろう。

彼女はこの東の町へ何かの希望を求めて来たのだろう。

私が西の町へ行ったのと同じように。

西の町を出た時はやっぱりあの犬が見送ったのだろうか。

あの大きな木の下で休んで、もう一度出てきた西の町を見たのだろうか。

丘を幾つも越えて、それでも東の町は見えないできっと不安になっただろう。

最後の丘を登り東の町が見えた時、どんな気持がしただろう。

私が教えた壁の木戸をうまく見付けたのだろうか。

それとも別の入口から入ったのだろうか。

この町へ来てどんな人達出会い、どんな生活をしていたのだろう。

彼女はこの町の空気が合わないと言っていたそうだが、どんな事があったのだろう。

そうして彼女はきっと昨日の朝この町を出て西の町に帰ったのだろう。

若しあの旅が順調なら、今頃は西の町の両親の元にいるのだろう。

彼女の無事を祈りながらアパートに帰った。

雪の残る町が掛かっていた私の壁に今度は西の町の宿泊所の絵を掛けようと思った。

 

 

 

 

 

そんなことが最近あって、私は昨日大変な事を発見した。

仕事の用事で町の東の外れの方まで行った時堤防に突き当たり、

上に登ってみると広い河がゆっくりと流れていた。

左右を見渡しても向こう岸に渡れる橋はどこにも無い。

近所の人に聞いてみたけれど、誰も向こうに行った事はなく、

又それを不思議に思ったこともないらしく、只送電線だけがこの町から河を越えて向こう岸に延びている。

若しかしたら更に東に別の町があるのかも知れない。

 

 

 


 

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